2022/11/21 12:02
はじめに
― 無農薬を目指してやる中ではいろんな問題が起きてくるはずだ。問題が起きれば、生半可な考えでやっておれば必ずそやつは挫折する。我々はいろんな問題が起きても、そやつに一生懸命立ち向かわなければいかん。立ち向かえば、その被害も最小限に食い止められると私は思う。
こやつをどげんかせんばいかんと一生懸命になって、みかん園に行く。良くせんばいかんという心構えであれば最小限の被害で食い止められる。
もちろん私の所にも病害虫の被害は出る。出るが、やっぱりみかん園に行くことによって、樹を観察することによってその被害を食い止める。そしたら広がらん。そやつも一つの熱である。常にみかん園には主人の足跡が無ければいけない ―
これは、きばる発足当初の会長である井川太二(いがわ・たいじ)さんの言葉です。
私たち「生産者グループきばる」は、熊本県南端の水俣、芦北、そして海を隔てた対岸の御所浦島で、甘夏を栽培しています。
なぜ甘夏を栽培するようになったのか、きばるの歴史を見ていただくことで、私たちの甘夏栽培に対する姿勢を理解していただければ、ありがたく思います。
甘夏みかんのこと
甘夏は1932(昭和7)年頃、大分県津久見市にあるみかん園の一角で夏みかんの枝変わり、つまり突然変異の一種として発見されました。 最初の発見者は園主ではなく、カラスと近在の子どもたちだったといいます。
熊本県には1949年に導入され、1956年より奨励品種となってその数が急増しました。
上の写真は芦北町田浦(たのうら)にある、甘夏の原木です。熊本県下では、今も多くの園で甘夏の栽培が続けられています。
夏みかんより酸抜けが早く2月頃から食べられる甘夏は、いわば早生系夏みかん。樹姿・花・果実の外観などは、夏みかんとよく似ています。
栽培に当たっては他の晩柑類同様、果実が樹上で越冬しなければならないために、年平均気温が16.5度、冬季最低気温が氷点下3度を下回らないことが条件になります。
水俣・芦北地域沿岸はリアス式海岸を有しており、年平均気温が16.5度を上回って低温の心配もない、晩柑類の栽培適地です。海岸から500m以内にある園地が多く、海風と太陽の恩恵を最大限に受け取ることができます。
捨てるところがないのが、甘夏の特長です。
生食はもちろんのこと、酸味がほどよく混じった果肉や果汁は、各種料理や製菓材料にも幅広く使えます。
果皮はマーマレードやピールへの加工に適していて、また果皮に含まれる油分は香りがよいので入浴剤としても楽しめると思います。
種やじょうのうに多く含まれるペクチンは、マーマレードを作る際に活躍。アルコールに種を浸して、自家製の化粧水を作ってもよいかもしれません。
あまなつ、という言葉の響きからは、甘いイメージが喚起されるのではないでしょうか。確かに、夏みかんよりは甘い。でも現代に流行する甘くて食べやすい柑橘と比べれば、酸っぱい方に分類される。それが甘夏です。
甘いだけじゃない、酸味と苦味がほどよく混じっているところにこそ、食べてよし・加工してよしという甘夏の要諦があるのだとも言えます。
水俣病のこと
水俣病は、工場廃水に含まれたメチル水銀が海や川の魚介類を汚染し、それを食べた人が発症する公害病です。伝染性疾患ではありません。公式には1956(昭和31)年に、最初の患者が確認されました。
症状では特に手足や口の周りの感覚障害が特徴的(※最近の知見によれば全身性感覚障害といわれる)で、このほか運動失調、聴力障害、言語障害、視野狭窄など、外から見ただけでは判じ得ない症状も多数あります。
根本的な治療法は未だ無く、主に対症療法やリハビリに頼って治療しています。
原因企業であるチッソの水俣工場は、1932年から36年間にわたって、メチル水銀を含む廃水をほぼ無処理で放出していました。
日本国の経済的利益が優先される時代の流れの中で、行政もチッソも防止策を先延ばしにしました。その結果として、巨大な公害事件へと発展したのです。
認定患者は2277名(うち生存者は415名 ※2015年9月時点)。しかし、実際には認定患者以外の「水俣病被害者」と呼ばれる人々が約4万5千人(※2015年10月現在)もいるのです。国が実態調査を拒否しているため、患者・被害者の実数はいまだに不明です。
陸に上がる
当時、公害の被害を受けた家庭の多くは漁を生業として暮らしていた人々であったため、その中に水俣病を発症する人が多く出ました。汚染された魚介類は獲っても売れなくなり、海で生きることはできなくなりました。
残された道は、陸に上がることでした。
時を同じくして、熊本県で甘夏の栽培が奨励されつつありました。こういった時代背景の中で、漁師から甘夏生産者へと生業を変えて生きようとする人が出てきたのです。
ただでさえ経済的に困窮していた状況の上に、さらなる苦労が積み重なりました。土地や農機具、苗木、栽培に必要な肥料や農薬など、お金はどんどんかかります。
最初は現金収入を得るために出稼ぎをし、戻ってきては山を切り拓いて苗木を植えるということの繰り返し。病気に侵された体にはこれだけでも大変なことでしたが、当時の農協指導による甘夏生産はまた、毒性の強い農薬散布を中心とした過酷な労働の連続でもありました。
農薬を撒くうちに、病気で倒れる人も出てきました。
その中で、公害の被害者でもある自分たちが農薬を撒いて被害を受けながら作った甘夏を、今度は消費者に食べさせてさらに農薬被害を広げてしまう、という矛盾にも気づくようになってきました。
産直販売をはじめる
1973年、水俣病事件の第一次訴訟判決が確定しました。それ以前から多くの人々が、水俣に移り住むことで、あるいは水俣に住まずとも遠方よりカンパを送ってくれたりすることで、息の長い支援を続けてくれていました。
こうした状況の中でごく自然に、患者の作ったものを支援者が売る、買うという細々とした産直が生まれていきました。
そこで私たちは1977年、現地の支援者団体である水俣病センター相思社を事務局として「水俣病患者家庭果樹同志会」という、甘夏の生産者団体を発足させました。
掲げたスローガンは、「被害者が加害者にならない」。
できるだけ農薬を使わず栽培した甘夏を食べてもらいたいという挑戦の、始まりです。
上の写真は、同志会生産者の園で援農(このときは堆肥撒き)をする若者たちの姿。身体にこたえる労働には、若手の力が注ぎ込まれました。
年間15回程度も散布していた農薬を減らすことに対しては、最初は不安がありました。近所の人たちも心配してくれたり、そんな作り方でみかんができるものかと笑ったりしていました。
しかし、会の発足当初からやり取りをしていた生活クラブ生協との関係性の中で確かな産直を続け、また全国へ販路を拡大していくことで、ゆっくりと周囲からの評価は変わっていきました。
農協出荷園地の中にも「そんなやり方もあるんだな」と納得して農薬を減らしたり、除草剤を撒かないようにする人たちも出始めるようになりました。
拡大と、問題の顕在化
会が発足して10年の間に販路は広がり続け、ピーク時には出荷量が900トンを超えました。しかし、販路が広がれば広がるほど、甘夏を買ってくれた人たちから、私たちの産直活動が持つ問題点を指摘されることになりました。
水俣病患者の支援という大義名分に隠れて品質がおろそかになってはいないか、というのが第一のものでした。
これをきっかけに、会の改革が始まりました。
問題が起これば農薬を減らしたせいにし、生産過程での自分たちの手落ちを自覚しないで消費者に押しつけて終わるようなことは、やめよう。甘えを取り払い、買ってもらう人たちの気持ちになって、自信を持って勧められる甘夏を目指し続けようと、気を入れ直したのです。
各地域の生産委員会を強化して、摘果などの指導を徹底。使用する肥料は、肥料会社と相談して独自に開発した有機肥料へと切り替えました。
写真は、園地の一斉見回りのようすです。ふだんそれぞれの園で黙々と仕事をする生産者たちは、この機会を得て栽培についての疑問点や技術の伸ばし方などを喧々諤々、議論し合います。
また、農薬散布を減らすのならば、園の日常管理はなおのこと重要になります。無農薬栽培への挑戦とひと口にいっても、容易なことではありません。
散布回数を減らして樹の様子を見ながら、剪定や焼酎・酢を撒くなどの代替案を打つ。
3歩進んで4歩下がるような日々の連続。ほかの甘夏と比べて見栄えのするようなものは中々できませんでしたが、根気強く続けました。その結果、現在に至るまでに品質はだいぶ向上したと自負しています。
それでも、一般市場から見ればまだまだです。自負にかまけていては、同じ過ちをくり返すことになります。
今も昔も、目の前にあるのは無農薬栽培への、果てなく続く長い道。真正面から見据えて、今後も努力を続けていきます。
同志会の解散、きばるとしての再出発
販路の拡大に伴って、受けていた注文に応えられないという事態も発生するようになりました。
生産量予測と実際が合っていればいいのですが、これが往々にしてズレることがあるのです。予測をもとに販売活動をしていきますから、生産量が減ってしまうと前もって受けていた注文への対応を考える必要が出てきます。
1989年のことです。
この年は実の生育が悪く、加えてカイヨウ病が多発したために、甘夏の生産量が激減。注文の不足分に対応するべく、同志会以外の生産者が栽培した甘夏を入荷しました。
しかしその中に、会の農薬散布基準を超えるものが混じっており、その説明が一部の販売先へ行き届かなかったのです。
これが新聞に取り上げられて、現地事務局であった相思社の責任が問われました。結果として同志会は一時解散、相思社で甘夏販売を担当していた職員は辞職することになりました。
事務局は園という現場を、生産者は事務局の仕事の煩雑さを、お互いがそれぞれ理解し合っていなかったために、食べてくれる人の信頼を損なうことになってしまったのです。
先の見えない状況が続きましたが、反省を踏まえながらこれからも何とか甘夏を作り続けたいという思いがあり、そのための準備会を設けようという動きが出始めます。
そして1990年、私たちは、辞職した相思社の元職員が立ち上げた「ガイアみなまた」を事務局として「生産者グループきばる」という名前で新たなスタートを切りました。
当然のことながら、甘夏を買ってくださる方々との信頼関係もまた、ここから再び築いていくことになりました。
新たな時代へ向けて
きばるとして再出発して、それ以前からのご縁を続けてくださる方々、また新たなご縁をいただいた方々の支えによって、私たちは今も甘夏を栽培することができています。
出荷量は平均してだいたい300トン前後になりました。たくさん売ればいいというものではありませんが、それでも一時期の出荷量からかなり落ち込んでしまっているのは、少し寂しくもあります。
生産者も、ピーク時からはだいぶ数が減りました。柑橘の種類が多様化して、より甘くむきやすい品種へと消費者の好みが移っている今、甘夏は時代の流れから遠ざかっているのかもしれません。
ただ、それらの動向を憂うことだけが私たちの仕事なのではありません。
台風や大雨、干ばつ、寒害などの異常気象、後継者不足等の諸問題、これらの現実に四苦八苦しながらひとつひとつ対応していくこと。
対応できなくとも、向き合っていくこと。
美味しい甘夏を、たとえお客さんが最後の一人になっても届けたいという思いを持つこと。
何より、無農薬栽培への挑戦という道を通じて、発足当初から持ち続けているスローガンを世に発信し続けること。
少し頑固なきばるですが、大事に育てた甘夏を次世代に伝えていきたい気持ちは、人一倍です。失敗から学んだことを活かしながら、容易ではない道のりを、皆様とともに歩んでいけたら。
そう思いながら、今日もみかん山へと足を運びます。